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2013/08/06

【特集】《 追悼 》現代バーレスクの母 ディクシー・エヴァンズ

Dixie Evans © 21st Century Burlesque Magazine

21st Century Burlesque 追悼記事
『Jo Weldon Interviews Dixie Evans』
翻訳:ニキータ・ビッチ・プロジェクト

 現代バーレスク再興の礎を築いたバーレスク界のレジェンド、ディクシー・エヴァンズが8月3日、世界中のバーレスクコミュニティが見守る中、86年の人生に幕を下ろしました。コミュニティが追悼の一色に染まる中、どうしてもやらずにはいられなくて、結局夜中から朝までかかってディクシーのインタビューを無我夢中で翻訳しました。今、私が愛と情熱を持ってバーレスクの世界に没頭できるのは、そもそもバーレスクというものが現代に存在しえたのは、全てこの人のおかげといっても過言ではないのです。そんな現代文化史に残る偉人の存在を、一人でも多くの人に知ってほしい一心で急いで訳したので、乱文ご容赦ください。

※インタビューは2007年に、現代バーレスクにおける教育者のパイオニアの一人であり、私が初めてバーレスクを学んだ師でもあるジョー・ブーブス・ウェルダンによるものです。

~出展~
Jo Boobs Weldon による2007年のディクシー・エヴァンズ インタビュー(その1) http://burlesquedaily.blogspot.com/2007/10/interview-with-legend-dixie-evans-part.html
Jo Boobs Weldon による2007年のディクシー・エヴァンズ インタビュー(その2) http://burlesquedaily.blogspot.com/2007/10/more-of-miss-dixie-evans.html 
21st Century Burlesque に寄稿された追悼記事(2007年のインタビューを転載) http://21stcenturyburlesque.com/jo-weldon-interviews-dixie-evans/

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Jo Weldon Interviews Dixie Evans

今年の6月にディクシー・エヴァンズを訪ねた。彼女が脳卒中で倒れて以来、初めての訪問だった。彼女はとても居心地のいいリハビリセンターにいて、施設というより家のような場所だった。私が到着したとき、彼女はリクライニングチェアで眠っていて、頭にはスパンコールで覆われた羽飾りつきのヘアバンドをしていた。目を覚ました瞬間から、彼女は話し相手を求めていた。

右手は麻痺しており、卒中で受けた顔のダメージが話し方にも影響していた。それでも彼女の瞳は今までと何も変わらなかった。輝いていて、スマートで、親しみやすくて、そして何より、興味の色を浮かべていた。

世界を旅して新しい生徒やパフォーマーたちにバーレスクを教えていることを話した。そして「みんなあなたの話を聞きたがっています。」と伝えた。「同窓会のことや、コンテストのこと、それにバーレスクの歴史をあなたから聞けたら本当に喜びますよ。古きよき“バンプ・アンド・グラインド”のやり方も学びたいと。」すると彼女は微笑んで喜び、こう言った。「自分自身でやり方を学ぶことも忘れちゃだめよ。」

ディクシーはニュー・バーレスクの進化を愛していた。彼女はステージに持ち込まれたどんなスタイルも愛し、そして人々がただ単に新しいものを作り直すのではなく、バーレスクの歴史が素晴らしいものだと知ってほしいと願っていた。

ディクシーがいかに歴史に日の目を見させ、鮮やかで新鮮でセクシーかつ重要なもの、今なお現代に生き続けられるものに変えたか。それをいつも愛しく思う。彼女の偉業は、毎日を、かつてそうだったように、もっとワクワクしたものに変えられるということを示した例であり、この10年間インストラクターとしての私の使命を鼓舞してくれたインスピレーションでもある。

ディクシーは私の人生を一変し、私のまわりのとても多くの人々の人生をも変えた。彼女は会う人すべてを明るく灯したのである。


(以下のインタビューは2007年に行われたものである。) 
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ディクシー・エヴァンズとのおしゃべりは最高だ。ディクシーは、世界中の誰よりフレンドリーで、寛大でいて気さく、そんな人だ。そして懐の深い人でもある。もしディクシーのことを余すとこなく知る人なら、このインタビューで語られた話の数々を大いに楽しんでもらえることだろう。もし彼女をよく知らないという人なら、きっとここに新たなヒーローを見るはずだ。

――バーレスクを始めたきかっけは?

バーレスクを始める前は、1940年代後半にハリウッドの(バーレスクとは)違うタイプのショーでコーラスラインの一員だったの。同時にショーガールでもあった。幕が開くとともに歩いてきて、両手を広げてスターの登場を招き入れる役をやっていたのよ。でも働いていたショーが2週間で打ち切りになって、ある日クラブの入口でたむろしていたら、そこのマネージャーが出てきて言うわけ。「君の演目をもっと短くして、もう少し観客との掛け合いを混ぜられないか?」って。「ここで踊ったことないわよ!」って答えて立ち去ったの。そしたら彼は通りまで私を追いかけてきて、面接を申し出た。チャイニーズのレストランでそこのボスに会ったんだけど、その人フォークを私に振りかざすもんだから、あちこちに麺が飛び散ってた。で、結局仕事をもらった。彼らが私に衣装から何から全部用意してくれたわ。確か1950年か、51年のことだったと思う。

――ステージネームの由来は?

私の本名はメアリー・リー・エヴァンズ。祖母の名前がディクシーだったの。メアリーってちょっとありきたりだとずっと思ってたから、3年生か4年生のときに変えたのよ。生まれはカリフォルニアのロングビーチだけど、育ったのはハリウッド。でも南部にいた祖父母のことはよく聞かされてた。雑誌ではよく「南部の娘」なんて言われてたけど、実際に私が南部で過ごしたのなんて、バーレスクでニューオーリンズとマイアミに行ったときくらいよ。

――当時はどのようなパフォーマンスをしていたんですか?

ニュージャージー州ニューアークのMinsky’sにいた頃、プロデューサーのミンスキーさんが楽屋に来て、「君はマリリン・モンローみたいに見えるから、“バーレスク界のマリリン・モンロー”と呼ぶことにするよ。」って言ったの。それで私は「ミンスキーさん、ハリウッドじゃみんなマリリン・モンローみたいに見えるのよ。」って答えた。でも彼は頑として「大物の名前なら目につくから、“バーレスク界の”は小さい文字で添えておくんだ。」と言って譲らなかった。というのも、当時のマイアミ・ビーチは観光客相手がメインの産業だったからね。当時すでにちょっとしたハリウッド・ナンバーのネタがあったから、それにさらに手を加えて、あたかもそれがマリリンの流儀であるかのように、彼女のような話し方を真似しながら服を全部脱いだの。ミンスキーさんは舞台裏まで飛んできて、「いきなり次のショーからやるとは思わなかったよ!」って言って笑ってたわ。それ以来、マリリンの映画は全部誰よりも早く見に行って、安雑貨店に駆け込んで、その演目に取り入れる映画に見えそうな小道具は何でも揃えた。
それぞれの映画から、ちょっとだけワンシーンを取り入れるの。『王子と踊子』(THE PRINCE AND THE SHOWGIRL)のナンバーでは、等身大のダミー人形を映画の中のローレンス・オリヴィエみたいに着飾って腹話術の人形みたいに使ったり、“I Could have Danced All Night”に合わせてステージの端から端を人形と一緒にダンスしたわ。ステージではいつもストッキングを脱ぐのにソファを使っていたんだけど、このときは赤いソファを踊り子用、紫のソファを皇子用に見立てて、あたかもこれから二人でお楽しみを始めるみたいにそのダミー人形を横たえるの。それから映画のシーンであったように、メダルを取り外すのよ。エルヴィスに恋する女の子を演じたナンバーもあるわ。そのときはラストにこんなストーリーになるの。その子は映画館に行ってエルヴィスの映画を見た後にぐっすり眠りに落ちちゃって、朝帰りのお仕置きにお尻をぶたれる。ドレスをまくし上げてお尻の上に手をこすりつけてぶたれたように見せたの。でもたいていはマリリンのネタをやったわ。「バーレスク界のマリリン・モンロー ディクシー・エヴァンズ」って書かれた横断幕が張られた飛行機がビーチの上を一日4回も飛び回ってて、観光客はみんな釘付けだった。一度、フランク・シナトラがその横断幕を見てジョー・ディマジオにそのことを話したら、ジョーがわざわざ私を見に来たわ。そしてデートした。シナトラともデートしたわ。でももともとは、サンフランシスコから来たしがないストリッパーだったのよ!

――主にどこでパフォーマンスを?

セントルイスやシカゴ、デトロイト、バッファロー、それからオースティンね。でもマイアミ・ビーチでは6年間一日も休まずショーに出た。私の演目は全てそこで完成したのよ。The Place Pigalleで働いてた。

――一番の思い出は何ですか?

バッファローのPalaceでショーをやっていたときは最高だったわ。だって家族に手紙を書くとき「今“Palace”(宮殿)で働いてるの!」って言えるじゃない?すごく威厳がある響きよね。大好きだったのは、どこの街へ行っても、どんな小さな街でも、たいてい1軒はバーレスク・ダンサーやコメディアンにはタダでお酒や食事を出してくれるレストランがあったこと。ニューアークのCaptain Joe’s Lobster Houseから、劇場に私宛の手紙が届いて、ロブスターのディナーをご馳走するからいらっしゃい、とあったわ。バーレスクで旅して周るのは本当に楽しかった。そんな素敵な町々に出会えることってそうないでしょう?

――何かスキャンダラスな出来事はありましたか?

ショー・ビジネスの世界にいたら、毎夜どこかでスキャンダラスなことが起きてるものよ!一つ選んでみるわね。これはスキャンダラスというのとはちょっと違うけど、でも大好きな話なの。バスティー・ラッセルというダンサーがいて、天然モノの巨乳でバスト180センチ超。私たちは劇場を出て、真夜中に薄暗い灯りの下、通りを歩いていたの。彼女は黒のタイトスカートに白いセーターを着ていた。すると車が一台歩道に乗り上げて、フェンダーが歪んでしまったの。車から女の子が飛び出して「私たちの結婚祝いでもらった車なのに!」って言うわけ。それでバスティーはこう答えた。「私にはどうにもできないわ。」その後警察が来てからもずっと「私にはどうにもできないんです。」と言い続けてた。だって、その女の子は乗り上げたのはバスティーのせいだ、って、見てよあの人!って言い張ったんだもの。私は警察に「彼女がこういう姿なのは彼女のせいじゃない。神の仕業よ!」って言ってやりたかったわ。バスティーが行く先々で、レストランでさえ、彼女が足を踏み入れるとその場が静まり返った。彼女は実にこれ見よがしに胸を見せて観客を沸かせてたわ。「ヨーロッパでは通りを歩いてても誰も口笛なんか吹いてこないの。」と言って、すごく感動してたわね。

――バーレスクが自分の知っていたものではなくなったと感じ始めたのはいつ頃ですか?

多くの人が気づいていないのは、バーレスクというのはアメリカの伝統だということ。テレビが登場するより前から、バーレスクには影響力があったのよ!30年代には可笑しく笑えるようなものなんて何もなかったけど、バーレスクショーに行けば、人は笑顔になれたし笑えたの。ストリッパーだけじゃない。そこには40人の女の子たちがステージを行進したり、ベリーダンサーがいたり、コメディアンやツッコミ役がいて、ショーでは大掛かりなセットやフィナーレがあった。お客さんが劇場を出るときには、生き返ったような気分で活力が湧いてくる。カンフル注射みたいなものね。他に使えるお金なんてなかったんだから!バーレスクは私たちの文化の、真に重要な一部なの。考えてみて。1941年にミッキー・ルーニーは、クラーク・ゲーブルエロール・フリンを差し置いて、アメリカで最も裕福で、最もギャラの高いパフォーマーだった。そしてそんな彼の父親であるジョーイ・イーウェルはバーレスクのコメディアンで、セシル・B・デミルから声がかかっていたくらいなのよ。バーレスクは40年代にはとても盛んで、どの街にもバーレスクの劇場があった。高いショーを見に行けない人たちでも、バーレスクショーなら見に行けたの。50年代にテレビが席巻し始めて、それがバーレスクを終焉に追いやってしまった。テンペスト(・ストーム)と私は、バーレスク界から追放されてしまったようだったわ。コメディアンたちは映画産業で受け入られたけれど、ストリッパーたちには行く先がなかった。

――バーレスク仲間で親密な友人はいましたか?彼らとは今でも近しい仲ですか?

どういうわけか私はバーレスクの女の子たちとはすごくウマが合って、誰とも仲たがいした記憶がないわ。あちこち旅してまわって、楽屋も自分専用の個室で、地元の子やコーラスガールの子たちはグループになって団結していたから、たいていはあまり彼らのことをよく知ることはなかったけど、それでも友達はできた。今でも手紙をやりとりしている人もいるわ。女同士、同じ釜の飯を食った仲とでもいうのかしら。本当に素晴らしい友情が芽生えた。東部のもっと大きな劇場では、もう少し諍いもあったかもしれない。マイアミ・ビーチでスクラップブックをなくしちゃったとき、なくしもの探していますって広告を出したら、14通も若い人たちから手紙が来たんだけど、みんな「舞台裏の熾烈な女の争いの話を聞かせてください」って言ってくるのよ!実際はそういうものじゃなかったわ。稀に赤毛が2人とか、すごく有名なダンサーが2人かちあったときなんかは、お互いに共通する部分が多いから、それがもとで衝突するようなことはあってもね。時には朝の9時にリハーサルで、ピアノ奏者と女の子たちで“Harlem Nocturne”の曲を取り合って揉めてたり。みんなたいてい曲のことで争ってたわね。私は“Hooray for Hollywood”とか“You Oughta be in Pictures”みたいな曲を使ってたから、そういうゴタゴタとは無縁だったけれど。私の曲は演目に合わせて仕立てられたものだったの。だから女の子たちが曲をめぐってやり合ってたのは、彼女たちにとっては深刻な問題だけど、私には関係のない話だったわけ。そういうケンカってよくわからなかったわ。だって、ひとたびステージに上がれば、お客さんはみんな目の前のダンサーのことしか頭にない。同じ曲を使った前のダンサーのことなんて考えないでしょう。

――エキゾチック・ワールド(バーレスク・ホール・オブ・フェイム)の成り立ちについて教えてください。

ご存じのように、私はジェニー・リーを通じて関わることになった。彼女のことは、仕事を通じてプライベートでも知っていたの。私たちがバーレスクでのキャリアを終えた後、ジェニーがサン・ペドロでSassy Lassieという小さなバーを始めて、6月の中ごろにはたくさんのダンサー仲間たちがそこに集まって同窓会をしていたのよ。ジェニーは小さなカードを私たちに印刷してくれた。メンバーのほとんどはLAエリアに住む年輩組だったわ。彼女の夫のチャーリーがバーテンダーで、2人は一緒に切り盛りしてた。後年、彼女はモハベのヤギ牧場に引っ越して、今度はそこで同窓会が開催されたの。そしてジェニーは乳がんで亡くなった。しばらくしてチャーリーから電話があって、同窓会のみんなが集まろうとしているというの。ジェニーのビジネスに関わったことは一度もなかったけど、亡くなる前に、彼女が雑誌に記事を寄稿してみんなのその後を辿ろうとしていたことは知っていた。私は彼女の古い友人で、仕事を辞めて引き継げる状態にあった唯一の人材だったのよ。それまでは介護の仕事をしていて、実入りはとてもよかったんだけど、それでも仕事を辞めてモハベへ向かったの。当時のボスは大きなクライスラーに乗っていた女性だったんだけど、彼女に車代を小切手で渡して、その車を譲り受けて牧場まで運転したわ。それから私の人生は一変した。ずっと思い出を飾っておける小さな場所があったら、と憧れていたの。それに私がいた世界は、注目に値するとわかっていた。
ジェニーが記念の品や衣装、それに同窓会で出てきたものを集め始めていたのを見て、それを引き継いだの。うまくいったわ。たくさんのファンたちに手紙を書いたら、突如いろんな品々が送られてくるようになった。私の他にもたくさんのものを収集しているコレクターの人たちがいて、彼らからショーのプログラムとか、看板とか、サインや写真なんかが集まったの。「何年間も靴の箱の中に入れておいたものです!」なんて言いながら。中にはジプシー・ローズ・リーのトランクとか、私がお金を出して買い取ったものもあるけど、みんなが協力してくれて、私がやろうとしていることも、その理由も理解してくれていた。膨大なコレクションを持っていながら、一般に公開せず眠らせたままにしている人がたくさんいたの。それをこんな風に人の目に触れられるようにしたのは私が初めてじゃないかしら。いろんな物がやってくるようになると、今度はダンサーたちがやって来るようになって、この名誉にあやかれて私は本当に恵まれている。今私は81歳にして、我が道を進んでいるわ!収入もなかったのにこんなことが実現できたのは、とても有難いことだし誇りに思います。信念あるのみだった。やれると信じていたの。そしてこうしてあなたのようなアメリカの伝統に興味を持ってくれる女性たちの手に委ねられることを嬉しく思うわ。

――今、ミュージアムはどうなっているんですか?

1~2年前に、あの古い牧場を出なければならなくなって、ラスベガスに移転したの。ルークとローラがミュージアムのために本当に懸命に働いてくれて、地元の人も巻き込んでくれた。彼らはみんな生まれも育ちもラスベガスで、私たちへのサポートに関心を持ってくれている。市長はとっても突飛な人だけど、すごく協力的よ。どこへ行くにもボディガードの代わりにショーガールを2人はべらかせて現れるんだから!
次に楽しみにしているのは、自分たちの常設のミュージアムを持つことよ。今はAtomic Toddというギャラリーの中に一時的なスペースを設けているの。(※2013年8月現在はダウンタウンラスベガスのEmergency Arts内に移設。)ミュージアムは今月150人もの人が集まって盛大にグランドオープンを迎えられたわ。サリー・ランドのオリジナルの扇(ファン)や、ジプシーのトランク、たくさんのペイスティに、ポスターやチラシなどが展示されています。コンテストをラスベガスで開催できるのも最高!今年はフリーモント通りで世界一長いボアを見れたし、なんといっても、コンテストに訪れた人たちがエレベーターから溢れかえっていたのよ。なんて素敵なの!

――ミュージアムで今後追加したいことは?

バーレスクの面白い真実をまとめたリストがあるのよ。それに公開したい楽曲のリストも。“St James Infirmary”や“the Mooch”みたいな、ちょっと淫らな感じの曲で、体が動かずにはいられないような。サクソフォンが嘆けば、それがダンスの合図。ひとたび聴けば夢中で演目を作りたくなって止められなくなるわ。サンフランシスコでマーガレット・サリヴァンと仕事をしたんだけど、彼女はまさにバーレスクの堂々たるゴージャスさを振りかざしてもったいぶって歩く人でね。それでバンドに向かって言うの。「ソリッド・フォー(リズムの一種)に落として、お家に連れてってちょうだい!」(※“もっと私をリラックスさせて”というニュアンス)なんてかっこいいのかしら!と思ったわ。それで劇場でこのセリフを言ってみたくて待ちきれなくなったくらい。ふしだらで、何ともクールよ。あるとき彼女が、「今度のサックス奏者のバスケットを見た?」って聞いたの。一瞬何のことだかわからなかったんだけど、見てみたら彼のズボンにはいつも一つか二つ、バスケット(膨らみ)があるのよ。この上なく淫らよね。最高だわ。

――新人のパフォーマーたちに伝えたいことはありますか?

みんな私がやっていることに感謝してくれるけど、バーレスクを生かし続けてくれて、感謝しなければいけないのは私のほうよ。ポルノやポールに登って仕事している子たちをけなすつもりはないけれど、もう少しストーリーや可愛らしさ、可笑しさを表現したいと思っている子たちには、バーレスクこそ絶好のチャンスになるわ。国中でたくさんのバーレスクコミュニティが出来てきて、喜ばしいわ。彼らは互いに教え合い、秘訣(コツ)を分かち合うことで、バーレスクを生かし続けてくれている。それに今度は私たちの仲間がフランスに行くんだもの!とても誇らしいことよ。